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長高日記カテゴリ一
学校案内
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■ 沿 革
  昭和 15.2.各種学校令による長浜家政女学校設置認可
          15. 4.長浜家政女学校を長浜国民学校に併設開校
      20. 4.県立移管、愛媛県立長浜高等家政女学校
          (本科1部4年課程、定員200名、2部2年課程、定員100名)
     21. 4.高等女学校令による変更認可、愛媛県立長浜高等女学校
     22. 4.愛媛県立長浜高等女学校併設中学校設置
      23. 4.愛媛県立長浜高等学校
          (募集定員100名)
     23. 9.定時制課程(普通科)設置
     26. 4.定時制出海分校2年制普通科コース設置
          従来の当該分校普通科課程を廃止
     30. 4.洋裁専科(1年課程)設置
     33. 3.定時制出海分校停止
     35.11.本館落成
     42. 3.定時制課程廃止
     46. 9.体育館竣工
     53. 3.特別教棟鉄筋四階建改築竣工
     60. 3.武道場改築竣工
  平成元年  創立50周年
           8. 4.入学定員120名 3学級
          11. 1.水族館公開(第3土曜日)開始
     12. 4.入学定員80名 2学級
     21.4.入学定員60名 2学級  創立70周年記念行事
     24.3.本館耐震補強工事
     27.6.体育館竣工

 

■ 歴 史
 本校は昭和15年の本日、長浜町議会において設置することが認められ、女学校として出発しました。正式には「長浜家政女学校」と言います。家政というのは家のまつりごと、つまり、家事をとりしきる、という意味です。したがって、授業の内容は、和裁や洋裁が中心であったようです。長浜町の人々が何とかして当時の中等教育を受ける施設を地元に作ろうと努力した結果で、いわば長浜町手作りの学校と言えます。時はちょうど、第二次世界大戦が起こる1年前のことでした。
 2月に設置が決まり、その年の4月10日に早くも開校、つまり授業が始まっています。2ヶ月間では校舎は建ちませんから、長浜小学校の前身である長浜国民学校に併設開校ということになりました。入学者は122名で、教職員13名でした。授業料は2円50銭。現在のお金に直すと2,400円くらいだそうですが、現在よりもはるかに現金の価値が高かったので、実際はもっと高いというのが当時の人々の印象であろうと想像されます。この家政女学校ができるまでは、長浜地域の女子が中等教育を受けるには、県立大洲高等女学校まで行かねばならなかったのですから、本校の誕生は地元にとって大きな喜びであったと思われます。
 1年後に第1回の卒業生38名を送り出しましたが、その年の5月に、新校舎が、松原公園と言われていた現在地にできあがりました。峯八十一という方が巨額の寄付をしてくださってできたということです。生徒も校舎建設予定地の雑草を刈ったりしたそうで、それだけに完成したときの喜びは大きいものでした。また遠方から入学する生徒のために昭和18年に寄宿舎も建設されました。場所は本校の北隣にある、現在は使っていないテニスコートです。しかしながら、ちょうど戦争も末期となり、時代は非常に厳しくなっていました。長浜の上空は敵機の進入コースとなり、昭和18年ころからは、敵機が降下し、爆弾や機銃掃射を浴びせました。校庭やその付近には直撃爆弾によって直径が十メートルもあるすり鉢状の大穴がいくつもでき、校舎も大被害を受けました。そのときの銃弾の痕は今も赤橋に残っています。当時生徒であった方のお話によると、校庭にも防空壕を掘って逃げたり、また運動場を耕してサツマイモを植えたりするなど、大変な思いをしたということです。学徒動員により、今治や京都の軍需工場にまで行った生徒もいます。それでも戦争による死者もけが人も出なかったというのは、幸せなことでした。そして、終戦直前、昭和20年の4月に県立学校となりました。
 昭和23年の4月に現在の校名「愛媛県立長浜高等学校」となりますが、県立新制高等学校に昇格させるため、近隣の町村では、期成同盟会を結成したそうです。そのおかげもあって県立となったのですが、それもつかの間、昭和23年11月には、何と、廃校問題が持ち上がりました。米国の進駐軍から「施設が高校設置基準に合わないところは置かない。」という新制高校統廃合の指令が出され、大洲喜多地方の5高校を2校に減らすという話が伝わってきました。進駐軍が長浜高校廃止と考えたのは、大洲まで30分で汽車通学ができるということも理由の一つになっていたようです。地元出身の先生方が中心となり大変な努力や工夫をして、ようやくこの危機を乗り越えました。昭和35年の本館新築に当たっても、建築費の3分の1以上を地元が負担しています。専攻科を設けたり、定時制課程が設置されたり、廃止されたり、さまざまな変遷を経て現在の形になったのは、昭和42年、つまり今から約40年前でした。最盛期には1クラス50人で5学級ありましたが、徐々に学級数が減り、平成12年度から2学級となりました。
 現在歌っている校歌は、昭和27年11月10日に制定されました。作詞は当時の国語担当教諭、大野武氏、作曲は大野の妻の従兄にあたる中野忠晴氏でキングレコード専属の作曲家でした。「応援歌にもなるような曲を」という注文に合わせて作ったそうです。
 以上が68年に及ぶ簡単な歴史ですが、この中からはこの地域に中等教育を行う学校を作り学ぼうとした当時の人々の熱い思いが感じられます。巨額の寄付をして基礎を築いてくださった方、学校存続のために東奔西走し、心血を注いで取り組んでくださった方々。そこには、地域を愛する人々の深い思いが込められています。このような学校というものを作ろうとした地域の人々の思いが、現在も本校を支えてくれています。
 (以上、平成19年度「創立記念日における校長講話」から)
 
 以後、平成21年4月には、学級数は1学年2クラスのままながら1学級定員30人となり、全体で「1学年定員60名」となりました。また、同平成21年には「創立70周年」を迎え、さまざまな記念行事を行い、さらなる一歩を歩みつつあります。

 

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